マダツボミの観察日誌

ギャルゲーマーによる、ギャルゲーやラノベの感想、備忘録とか

【美しきエゴイズム】白昼夢の青写真 感想

 ーー本当に素晴らしい作品と出会ったとき、私たちは語る力を失う。

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 Laplacianさんの『白昼夢の青写真』プレイしてきました。

 もう、良すぎて言うことがない。久々に仕事に手がつかなくなる作品と出会いました。日曜にプレイして、月曜ずっと頭の中でどうしてこうなってしまったんだ・・・?って頭の中でぐるぐるしてましたね。

 本作は、CG、シナリオ、世界観、演出、音楽全てに隙が無かったです。普通のギャルゲーにありがちな最後のワンシーンだけ良いとかではなくて――勿論終わりも最高だったのですが、そこまでに至るシナリオがすべからく面白かったのが凄い。

 CASE1~3は単体でも十分に面白く、特にCASE1の死との向き合い方を描いたのは見事でした。また、CASE0はもう凄まじいパワーを持っており、読み終わったときには、喜怒哀楽全ての感情を使い切った気分でしたね。2020年は『ゆきいろゆきはな』が最強だと思っていましたが、普通に心が揺らぎました。ここから『アインシュタイン』も待ってますし、2020年はすごいぜ。

 最近のエロゲは、昔と比べて割と万人に受けそうな出来のものも多いですし、これが一部の人にしかプレイされていないというのは本当に勿体ないことだと思います。でも、エロが入ってる時点で万人に読んでもらうことはできないし、エロは抜いて欲しくないし・・・うーむ難しい。

 ここからネタバレするので、未プレイの方はとりあえずプレイすることをお勧めします。

 

 

 

 本作は、世凪という一人のヒロインのみにフィーチャーした、フルプライスとしては珍しい作品ですね。しかし、前述したとおり決して内容が薄いわけではありません。

 私たちプレイヤーは、世凪という少女の歴史を3つの作品を通して体験することで、世凪が両親を、遊馬を、入間を、彼女の世界を、そして海斗をどう思っているというのが痛いほど理解することになります。これにより、本作は私たちプレイヤーに恐ろしいほどの感情移入をさせることに成功しています

 CASE3では、カメラマンになる夢を追いかけたカンナを好きになるすももの話から、幼少期の愚直に夢に向かって突き進む海斗への憧れを、

 CASE2では、自立していて格好いいオリヴィアというなりたい女性像と、オリヴィアを救うために命を削って執筆するウィルの話から、自分のことを思って中層に行くために研究者を目指した海斗への好意を、でもその夢の隣に私はいられないという諦観を、

 CASE1では、学校の教師と生徒という背徳的な関係から、社会などすべて捨てて海斗と二人だけで残りの時間を過ごしたいという強烈なまでのエゴが描かれます。

 これらがCASE0のシーンとマッチするから、世凪が気持ちを発露しなくても彼女の気持ちが痛いほど伝わってくるのです。でも世界はどこまでも世凪に厳しくて、それが悲しい。

 まず世凪は若年性アルツハイマーになることが定められており、その時点で人より長い時間を生きられません。さらには、彼女の夢を共有するという、特殊な能力のせいで研究者に目を付けられ、人体実験されます。そして挙句の果てには基礎欲求欠乏症と、作中彼女はとにかくひどい虐めを受けます。でも、どこまでも救いがないのに、世凪はいつだって海斗のこと、他人のことを思っていました。最後の世凪の分身である3人が、本当に楽しかったと伝えるシーンなどは死ぬほど泣きました。

 良かったわけ、ないじゃん。もっと生きたかったに決まってる。もっと些細ながらも楽しい日々が待ってたはずなのに、突如奪われ、それでも恨み言一つ言わずに海斗のためを思って最後まで笑っている世凪が本当に美しく、尊い

 こんないい子はいません。最後、概念上の存在になるわけですが、これはこんないい娘は世の中に存在しないというライターの強烈な皮肉にすら感じられます

  プレイ中、世凪の気持ちを思うと本当に辛くなってました。過去の情景が楽しく、幸せだったからこそ、記憶をなくし始めた世凪を見るのが辛かったし、脳みそ切り取られた時はリアルに「は?」ってなりました。バッドエンドが定められた幸せな話は、『はつゆきさくら』でもありましたが、本当に読んでて辛くなります。

 その中でも、自分が忘れているということを自覚して、愛されていることがわかっても記憶の気持ちが追い付かなくて・・・ということを淡々とした演技で表現した声優さんには脱帽です。

「――自分じゃない、誰かほかの人の気持ちがそこにあるだけで――

 本当は、狂おしいほど、海斗を愛したいのに――

 こうやって手をつないでいるだけで、安らぎを感じたいのに――

 ――今のわたしはなにも、感じないの」

 どこか海斗もそして私も、世凪の病気のことを甘くみていたんでしょう。どこかご都合で記憶を一部でも取り戻して、また世凪として愛しあえる日々を想像していたのでしょう。記憶喪失ものの常として、記憶を失った中でも好きだった相手のことを思い出してまた好きになるという展開がありますが、今作に限っては安易にそういう道に進まずに、あくまで別人であるという体をとっていたのも、また印象的でした。

 でもだからこそ、ラストのシーンで世凪がみんなのイメージで復活したときは安堵しました。ああ、やっと誰にも憚れず生きていけるのだと。

 

 楽しみ、怒り、悲しみ、安堵すべての感情を引き出してくれた本作は、平坦な日々を送っている私のような人間に彩りを与えてくれる最高の作品でした。まだまだエロゲも捨てたものじゃないですよ!!

 

 

――と、ここまでが1週目で感じた感想です。

 

 さて、このブログを書くために色々と読み直してきたのですが、この話の根底にあるのは人間のエゴイズムの肯定ではないでしょうか。

 海斗の行動は、冷静に考えると(冷静でなくても)どこまでも自己中心的で、そこに他人、世凪の気持ちは介在していないように見えます。

 例えば、中層を目指して研究員になろうと努力していたとき、口では世凪もその方がいいと言い聞かせていましたが、その実、ただ母親の病気を治せなかった下層を憎んでいただけで世凪のことなんか微塵も考えてないように見えます。

 夢の研究をするにしても、始めは世凪のあまり第三者に自分の中に入ってほしくないということを受け入れてたものも、人類を救うという大義のために、平気でその約束を破ります。破ると言っても一応お願いをしているわけですが、なんともエゴイスティックに感じられるのです。

 夢の研究をし続けてアルツハイマーを発症したかもしれない世凪の父親を知りながら、ここまでなら大丈夫と自分に言い訳をして研究を進めていき、いざ発症すれば、急に慌てふためいてやめようという。それは遊馬じゃなくても道理が通らないと言うでしょう(でも前頭葉切り取ったのは絶対許さないからな、アスマァッ!)。

 そして、おかえりなさいを伝えたいなどと自己中心的な理由で、自分と出雲以外認識できない世凪を作り出して彼女を苦しめたのちに、いざいなくなってみれば耐えられなくなって仮想空間上に、自分の思い出の世凪を構築してしまう。

 これがエゴでなくて、なんと言うでしょうか。みんなの認識が一致して作り上げられた世凪は、あくまで海斗の中の世凪であって世凪ではありません。スワンプマンの話ではないですが、死んだ人は元には戻らないし、それはその人の個を無視した所業とも言えるでしょう。だってそこで生まれた世凪は再現データであって、生きていた世凪の意思はないのだから

 ただこれは読み取り方の問題でもあります。宮澤賢治春と修羅の有名な一文で「わたくしといふ現象は、仮定された因果交流電燈の一つの青い照明です。」とありますが、この大乗仏教的な考えを拡大解釈すれば、自分は他人の認識から存在することとなり、この生まれた世凪は世凪本人だという捉え方もできます。プロローグにおいても海斗は似たような話をしておりーー何なら最初はそういう趣旨の話だと思っていたーーライター的にはそういう風に考えてた可能性が高いと思います。

 一方で、私は上記の解釈を様々な人間と交流する中で自己が確立するものだと考えており、海斗ただ一人の思い出の中の世凪を共有することは、思い出の再現であって世凪の自己の確立には至らないのではと思うのです。

 また、海斗の話を聞いた住民がおのおの想像してそれぞれの世凪像を構成し、その最大公約数世凪が仮想世凪として再現されたとも考えられますが、やっぱりそれは別人ですね。

 

 閑話休題。そんな振り回されていた世凪も最期には自分のエゴを海斗にぶつけています。自分の人生を意味のあるものにしたい、終わり方は自分で決めたいと。これは少しでも長く世凪といたいという海斗の思いに反するものであり、自分は自分のまま死にたいという当然の意志にも感じました。

 しかし、そんなどこまでもエゴイスティックな生き方がとても私には美しく見えました。人は時に自分の考えは絶対に正しいと思って間違ったことをしがちであるし、どんなに間違えたことだとわかっていても最愛の人を求めてしまう。また自分のままで死にたいというのは、多くの老人が抱える願いじゃないでしょうか。それはとても強い思いに満ち溢れていて、生の発露とは作中の言葉ですが、まさにその通りでした。その姿は原初的な輝きに満ちていて(は、格好付けすぎですか)、私もそのように生きたいとそう思うのです。

 例えば、海斗が夢の研究を進めずに、世凪のアルツハイマーの発症が遅れ、暫く20年ぐらい幸せに過ごすというのも一つの形だと思います。しかしそれはもう海斗ではなく、ただ生きてるだけということにもなりかねません。『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』とはトルストイの言葉ですが、不幸であったからこそ輝いた、そんなお話に感じました。

 日本人は古くは一人ひとりの我よりも、集団を尊ぶ人間性だったように思われますが、最近変化しているように感じているのは、私だけじゃないでしょう。離婚率の高さや、離職率の高さ、小さなところでは飲み会の減少(コロナとは関係なく)などなど、自分のエゴを主張する人が増えてきているように感じます。これは豊かになってきて集団である意味が薄れてきたからとか、西洋化の影響とか色々あると思いますが、とにかく我々はこの変化を受け入れていかなければならないことは間違いありません。本作は、そんなエゴイズムの中で生きていかなければならない私達に、その美しさを伝えてくれる、そんな作品であったのかもしれません。

 

 さて、長くなってしまったこの感想文に(故)波多野先生からひと言、

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 すみませんでした!!!