マダツボミの観察日誌

ギャルゲーマーによる、ギャルゲーやラノベの感想、備忘録とか

『こなたよりかなたまで』感想

 『思う通りに生きるのは難しい。美味しい所だけを選んでいきることなんて、不可能なのだ。』 遥彼方

 

 冬ゲー第二弾ということで、こなたよりかなたまでをプレイしてきました。こなかなはOPテーマの『imaginary affair』が有名で知っていたのですが、本編は初めてでした。

 早速感想ですが、『こなかな』は凄い人間臭い作品でしたね。よく考えてみれば当たり前のことなのに、他人のことを下手に気遣ったり、病気などの外的要因によって行動が歪み、自分のやったことを正当化して、間違い続けてしまう・・・。それは第三者から見れば行動に矛盾があるなとか、一貫していないなとか思ってしまうわけですが、実際にはありがちな話ですよね。人は思いのほか思い通りに生きていけない、美味しいところだけを選んでいきることなんてできないを突き詰めた本作は非常に共感でき、私は好きでした。テーマがはっきりしてる作品はわかりやすくて良いですね、あまり一般受けしない作品であるとは思います。

 個別ルートとしてはいずみ・優ルートが一番好きでしたね。主に回想で進み、ギャルゲー感は薄かったですが、病気を通して優が心を開いていく過程が丁寧に描かれており、良かったです。特に、自分が先に死ぬことによりお爺ちゃんや他人を傷つけないために無感情で他人と接していた優に、彼方がかけた「頑張らなくていいんだ」は巷で見かけるそれとは重みが違っていて胸を打ちましたね。

「何故なら僕は君より先に死ぬ」

 かつてこんな説得力のある頑張らなくていいがあったでしょうか。この台詞は彼方にしか言えないから本当に良いんです。そしてこれと対比した優の「私を置いていかないで」は思わずほろりとしました。人を拒絶していた優が我儘まで言えるようになった、普通の子供になることができた瞬間で嬉しくなると同時に、それでも彼方は長くは生きられなくて別れは必ず待っているのが悲しい。でも大切なことは時間に関係なくあって、死ぬまでの日常をただ一緒にいたいというエンドは素晴らしいの一言に尽きました。

 他のルートはまあ普通でしたね。クリスノーマルは真相を知ってしまうとあまりにクリスが可哀そうでしたが、今ある日常の延長で人生を終えたいという彼方の台詞はどこまでも間違っていながら正しく、考えさせられました。佳苗ルートは、実際に素直に言ってみれば何てことない話だという優しい世界エンドで、九重ルートは人のぬくもりを最後まで求めてしまうエンドだったんでしょうか。

 キャラとしては暗示を解かれる前のクリスが好きでしたね。おしとやかモードも嫌いではないですが、あの元気なクリスが好きだったので、終盤はずっと元に戻ることを祈ってました(戻りませんでした)。

 

 さて少し考察を。『こなかな』は死を目の前にした人間がどう考えるかを題材として、人の普遍的な生き方を提示している作品だと思います。死生観についてを語った話ではないということがポイントで、彼方の独白にある

「本当に大事な事には時間など関係ないはずなのだ。」

が全てを物語っています。だから作中主人公が死ぬシーンや別れのシーンはクリスノーマルしかないわけですね。そういうシーンは簡単にお涙頂戴できるわけで、ここまで描いたら入れ得だと思うのですが、ライターはあえて入れなかった。

 では一体時間が関係ない大切なことは何かと言えば、とても単純なことで、思ったことをそのまま言うことであったり(クリス、佳苗)、人のぬくもりの存在(いずみ、優)だと作中で述べています。改めて言われるまでもないことですが、主人公彼方の置かれた状況がこれらの事の大切さを際立てているのです。

 

 『こなかな』は昔の作品ですが、人間の普遍的な心理を描いており、短いながらにテーマがはっきりとしていて、綺麗にまとめられた佳作と言えるでしょう。寒い日の続く、この冬の季節に心温まる本作をプレイできて良かったと感じています。

 

さくらの雲*スカアレットの恋 感想【ネタバレ注意】

 『櫻の木の下には死体が埋まっている!』

 梶井基次郎『桜の木の下には』の冒頭の文章であり、この世は美しいだけでは存在しえない、美しさの裏には何かおどろおどろしいものが潜んでいるという示唆を含んだ一文であります。

 令和の時代、世界規模でみると新型コロナウィルスが流行っていたり、アメリカと中国がやりあっていたり、終わらない紛争があったりしますが、ここ日本においては平和な日々が続いていると言っていいのではないでしょうか。少なくともエロゲの記事を書こうと思えるぐらいは平和であることは間違いありません。

 櫻の木の下に死体が埋まっている。―――では、この平和な時代の裏には何が埋まっているのでしょうか?

 

 2020年9月、きゃべつソフトさんの新作『さくらの雲*スカアレットの恋』(以下『さくレット』)をプレイしてきましたので、今回はその感想記事になります。

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 実は前回記事を書いた『アメグレ』よりも前に今作をプレイしたのですが、暫く感想を書けずにいました。というのも、その当時の私はライターの冬茜トム氏を知らなかったので、『さくレット』には大変な衝撃を受けまして、言葉を選んでいるうちにズルズルと2ヶ月近くが経過してました。

 『アメグレ』でもそうでしたが、本作もうまく読み手の固定観念・常識を作り出していますね。また、それをぶち壊すシナリオ構成は脱帽もので、今回もきっちりハマりました。桜雲硬貨のCGでぶわっと鳥肌が立って、クリックの手が止まって、「マジか・・・」って思わず呟いたぐらいです。

 そして今作の凄いところは、物語としての勢いがあるんですよね。前作アメグレの破壊パートでは確かに驚きはしたものの、どこか「で?なんなの?」という気持ちがぬぐえませんでした。ですが、今回はそこからの司の魂の叫びがどこまでも胸を打つのです。

『――あなたになんか判らないッ!こんな――死の危険もない場所で悠々と暮らして――人の縁にも恵まれて過ごしているあなたにはッ!』

 そこまで淡々と話を進めていた司はどこか人間味のない、台本上の存在だっただけに、あの激情が際立ちました。本当にそこまでの日常が楽しくて、この時代の人たちはみんな優しかったから、滅茶苦茶共感できるのです。そしてそこからの所長の優しさですよ、もう本当に好きってなります。

 また、VS加藤の登場人物出てきてみんなでわちゃわちゃやる展開は純粋に楽しかったし、ラスト桜の木の下の『初歩だよ、司――お前を愛してる』で涙腺が壊れ始めて、手紙、そしてEDまでの流れで完全に号泣しました。あのEDは歴代ギャルゲーEDの中でもトップクラスに好きです。みんながみんな司のために頑張ってきたから、あの最後の風景が作り出されたということが容易に想像できてしまって本当にダメです、涙腺が崩壊します。

 全体的な構成の出来は『アメグレ』の方が上だと思いますが、物語としての面白さは間違いなく『さくレット』の方が良かったですね。物語の構成などの技巧的な面白さもいいですが、やっぱり私は単純な人間なので、読んでいて直感的に感情を揺れ動してくれるような作品が好きですね。

 

 少しキャラの話をさせてください。今作も梱枝りこ氏のキャラデザが素晴らしく、どのキャラもとても可愛かったですね。ただシナリオ補正もありますが、一番好きなのはやはり所長です。もう本当に可愛い。義を重んじ情に厚く、お金に目がないとか少し抜けたところもありますが、決める所はしっかり決めるという所が人間としても好きだし、見た目金髪サラサラロングのホームズ衣装が可愛すぎた。可愛い女の子は何着ても可愛いと言いますが、所長に関しては完全にマッチしていて凄い。あと立ち絵でチラリと見える黒タイツの太ももも好き。メッセージボックスを見てるとつい目がそちらに向かってしまいます。

 所長以外だとメリッサが好きでしたね。メリッサはシナリオ上も美味しい役割をもらっていますし(蓮ちゃんとはいったいなんだったのか)、列車の中でのなんとなくHしちゃうシーンは好きすぎました。

 

 閑話休題

 ここまでざっくり感想を語ってきたところで、冒頭に戻りましょう。今作では、最初と最後の二回、『桜の木の下』からの引用があります。特にラストの引用は印象的で、ラストにわざわざこれを入れてきたというからには、この物語の根底として、美しさの裏には何かおどろおどろしいものが潜んでいるという考え方――ここでは”桜の木の下理論”とでもしておきましょう――が流れていることが予想されます。

 この桜の木の下理論を元に『さくレット』を考えてみると、次のように考えられるのではないでしょうか。

 『さくレット』は多世界解釈を前提としていましたね。つまり、この平和な令和の時代の裏には、第三次世界大戦が起こっている世界(=枝)があり、そこではCB兵器が飛び交い、若者はまた復讐のため武器を取り、永遠とそのループから抜け出せない――そういう”可能性”があるから今のこの時代は美しいんだということが今作のテーマなのではないでしょうか。

 また、EDからもわかる通り、司が令和にたどり着くまでには多くの人間の頑張りがありました。このことから『桜の木の下』は、この世界はこれらの人々の血肉をすすって成立しているから美しいのだということを示唆しているのかもしれません。

 更に、この桜の木の下理論は、ギャルゲーという枠組みにも当てはまります。通常ギャルゲーは数人ヒロインがいて、特にシナリオを重視したゲームに関して言えば、一人メインヒロインがいて、他のヒロインのシナリオはメインヒロインのシナリオの補完となるケースが多く見られるでしょう。『さくレット』では言うまでもないことですが、所長の所長による所長のためのシナリオでした。つまり、所長の下には選ばれなかったヒロインたち(=死体)が埋まっているんですね。だから所長ルートは滅茶苦茶面白いし(=美しい)、逆に蓮ルートで蓮ちゃんにほぼ役割がなかったのも、この構造を明確にするためだったのかもしれません。あくまでも桜は所長で、他のヒロインたちはウスバカゲロウのようなものだと――とこれは考えすぎですね。

 

 さて、今生きているこの世界は奇跡的に成り立っているというのは、色々なところで耳にする話です。ただその奇跡を奇跡としてありのまま受け取るだけでは駄目だということを今作では言いたかったのかもしれません。私たちはその想像力を働かせて、起こりうる悲惨な可能性を考え、そしてここに至るまでに流してきた人々の血と肉を認識することで、私たちの心象は明確になるのです。

『今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。』

 

 

 『さくレット』は、前作同様周回するたびに新たな感想が生まれる稀有な作品でしたね。色々考える余地のあることに加え、純粋に楽しい物語は名作といって過言ではないでしょう。この令和の時代に、この作品をプレイできて本当に良かったと心から思える、そんな作品でした。

【圧倒的構成力】アメイジング・グレイス 感想

 「エヴァも、パンドラも……人に災厄をもたらすのはいつも女性なのですね。なんて、ふふっ」-シスターリリィ

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 季節は冬、しかもクリスマスも直前ということで、今回はきゃべつソフトさんの『アメイジンググレイス』をプレイしてきました。雰囲気がとてもよく、優しい世界に癒された所で、早速ですが感想を残していきたいと思います。

 『アメイジンググレイス』はひと言で言えば、非常に丁寧な作りの作品でした。登場人物は皆何らかの役割を持っており物語に絡んでくるので、こいつはどんな過去を持っていて何を考えているんだろうと考えながら読み進めていくのはとても楽しかったです。また、日常のちょっとしたやり取りも伏線になっており、これらをラストの展開にしっかりつなげる技術は素晴らしかった。すべて読み終わった今再度読み直してみると、全然話の印象が違うのには驚かされます。というか本当に凄い、なんだこれ?ここまで緻密に作られてるのかこの作品と若干引くぐらい凄いです。

 設定面でもオーロラに囲まれた街の真相編は非常に納得いく内容でしたし、ある仕掛けの部分では想像もしていなかったので、思わずクリックする右手の動きが止まりましたね。そして今までのことを思い出して、主人公と一緒に『ない、ない、ない、ない!!』って叫んでました。これだけヒントがあったのになんで気づかなかったんだ自分・・・?と、ここまでギミックに綺麗はまったのは結構久しぶりで、泣けるとかそういう感情的でない、理性的な感動というんでしょうか、そういうのを得られたことが嬉しい。

 また、外界から遮断された街で過ごす住人の思考と外の世界からやってきた主人公の考えのすれ違いの描写がとても優れていて、この世界は一体どういう世界なんだと色々考えて読んでいて飽きなかったところも好評価です。自分の固定観念でついつい考えてしまうから、登場人物たちとの決定的な違いになかなか気づけないという。展開が読めそうで読めないのが凄いですよね、分かりやすいシナリオと先が読めない展開っていうのはなかなか両立しないと思うのですが、そこをうまく作り上げているのが『アメイジンググレイス』でした。考えれば考えるだけこの作品よくできてますね、本当。

 更に言えば心理描写も真に迫っており、引き込まれました。未知との出会いと興味、外界に憧れる気持ち、長い期間のやり直しの先でちゃぶ台を返された絶望感、自分と異なる存在への嫉妬と、どれも深く共感してしまいます。特にラストの告白は万感の思いが詰まっていて胸に響きました、あそこであの選択肢を決めてくるのはずる過ぎます。

 ただあまりにも丁寧が過ぎて、イマイチ話にのめりこめなかった部分もあります。また、まるで設定のためにキャラクターが動いているような感触を受けてしまったのはちょっとマイナスです。

 行動面では、例えば壁画の落書きを最終ルートまで確認しにいかなかったのは疑問ですよね、リリィ先生が明らかに不審な行動をしてるんだから少なくともリリィを追いかける回には確認にいくだろうと。主人公的には多くあるイベントのうちの一つだったという見方もできますが、下手に丁寧に描かれているだけにそういう所が気になってしまいました。ただやっぱり主人公は記憶を失った状態になっているのであって、しょうがないかなあというところでもありますが。

 心情面でもほとんどすべてをキャラクター達は語ってくれていており、親切でいいとも言えますが、私としてはもう少し想像できる余地を残してくれても良かったかなあと思ってしまいます。わがままかもしれません。作品が完結しすぎててこの場で書くことがないんですよ!!

 少しキャラの話をしましょう。今作はヒロインみな可愛く、特にサクヤちゃんは激かわでしたね。ピンク髪の女の子が個人的に好きだというのもありますが、先輩先輩と子犬のようになついてくるサクヤちゃんが可愛すぎました。CGも軒並み素晴らしく、特に最初の髪を下ろしてネグリジェ姿でぺたんと座るサクヤちゃんは可愛すぎるので必見です。好き。あとアフターストーリーのユネちゃんエロ可愛すぎですね。無垢少女が行為を知って少しずつエッチに変質していく様はとても股間に来ました(何を言っているんだお前は)。

 

 さて、ちょっと物語の核心をつくネタバレを含む感想・考察を書いていきます。

 

 メインヒロインはどっち?

 今作メインヒロインはユネとサクヤ、結局どっちだったんでしょうか?

 サクヤは兄ギドウのタイムリープを止めるため必死に1年を繰り返してやっとアポカリプスを成功させたのに、今度はユネによって再びループが起こってしまい、じゃあ二人の納得できる道を探そうとして、色々道を探ってやっと光明が見えたと思いきや、主人公にちゃぶ台を返されることになります。そんなサクヤの絶望たるや容易に想像できてしまいます。だからあの告白は真に迫ってるんですよね。

 初見では拉致監禁して記憶消し去っといて何言ってんだこいつ?と思ってしまいましたが、7年も同じ一年を繰り返しさせられて、そのことを自分以外誰も知らない状況で精神がすり減ってきていたことを考慮すれば、殺さなかっただけまだマシじゃないかと思ってしまいます。そして殺さなかった理由も可愛らしいですよね、先生と生徒じゃなく同じ学生としてシュウと1か月を過ごしたかったという。そんなこと言われたら全部許しちゃうよ私は。

 さて少し見方を変えていきます。想像になってしまいますが、シュウが記憶を失わない本来の世界線ではもしかしたらユネとシュウが付き合っていたのかもしれません。シュウは音楽の先生で、音楽の専攻がユネしかいないことや、誰も認めてくれなかった声楽をシュウだけが認めてくれたことなどから、ユネにとってはシュウはかけがえのない存在であったことは間違いないです。同い年ということもあり、そこから恋に発展したと思うのもおかしな話ではないんじゃないでしょうか?

 だから、タイムリープはアポカリプスが防がれたギドウだけによって起こされたものではなく、シュウがユネに取られてしまったことに納得ができないサクヤの暗い願いからも起こされたものであるとも考えられます。

「先輩と――結ばれたらいいな、って……ずっと、思ってました……!そんなの、先輩からしたら迷惑なのに……っ……!」

 アポカリプスの失敗だけが原因ならラスト同様キリエとコトハの策略にはまって、ギトウが呪いから解放される周回があってもおかしくないはずです。

 とすれば、サクヤが1月のシュウとの出会いで整合がとれなくなるリスクを背負ってまでユネに変装したのも納得ができる話です。本来シュウとユネはくっつく運命になっており、ユネに変装した方がシュウの警戒がとけると考えた、もしくはサクヤのままではうまくいかなかったのではないでしょうか?

 ここまで考えるとシュウが先生ではだめだったというサクヤの言葉も大きく変わってきます。シュウが先生になってしまうと必然的にユネとの距離が近くなってしまうので、どんなに頑張ってもサクヤが選ばれることはない、だから初めから平等に付き合える生徒である必要があったということです。事実生徒となったシュウは各ヒロインたちとくっつく可能性が発生しました。ただそれでもダメだった。サクヤを疑ってサクヤとずっと一緒にいたルートも最後にはシュウがやり直しを選んでしまう。これはユネとくっつくことへの強い運命力の働き(プレイヤーの意思の介在ともとれる)だとも取れます

「私たちのつかんだ未来で納得できなかったから――先輩はそこにいるんですよね?」

「嘘ですっ……!それなら、どうしてあの時に終わってくれなかったんですか―――っ!」

 こうなると、クリスマスの告白シーンを読むと大分印象が変わってきます。運命を変えるために私はここまでやってきた、一度はダメでしたけど、今度こそ選んでくださいシュウさん――と。そして神(プレイヤー)は再度選択肢を渡されるわけです。本来くっつくはずだったユネにとっては至極迷惑な話ですが、その気持ちの強さには心を打たれるものがあります。サクヤのやったことは褒められたものではありませんが、それだけ人を好きになれるということは、その純粋な想いは、それこそ「美しい」と感じてしまうのです。この町では美が何よりも優先される―――だからメインはサクヤともいえるでしょう。

 ただ、サクヤに良いところを大分持っていかれた感は否めませんが、あの美しいユネと言う少女のこともやっぱり私は忘れられないのです。どこまでもみんなのことを思って、自分を犠牲にしてでも動くことができる少女。自己犠牲なんて今どき流行んないですが、町をみんなを救いたいという純粋な気持ちはやはり美しい。サクヤに自分の運命をこれでもかと捻じ曲げられてもそれでも皆を受け入れる懐の深さ、そりゃ神様も黄金リンゴを贈呈しますよ。お前がやっぱりNO1だ。

 そう考えるとどちらがメインが議論は難しいですね。ただどちらも選べるというのが、ギャルゲーの懐の深さとここではまとめておきましょう。

 作中未回収伏線を想像する回

 今作は勘所ではしっかり伏線を回収していったものの、一部未回収の伏線がありましたので、それについて妄想していきます。

①なぜギドウは自分の作品を破壊したか?

 ギドウルートのラストでは、ギドウは自分の作品『嘆き』を破壊したのち姿を消してアポカリプスが起こるという結末でした。これについては特に作中触れられていませんでしたが、追い詰められたギドウの語りから予想することはできそうです。

 ギドウをシュウが追いかけた周では、1か月という短い期間ながら、チェスをしたり、食べ歩きデートをしたりと、ギドウはシュウにかなり情が湧いたことが推測されます。そこでギドウはふと思ってしまったんじゃないでしょうか、このままこの日々が続くのも悪くはないと。しかし、真面目な彼にとって新たな美、破壊の美学であるアポカリプスを起こすことは強迫観念としてあり、このままの精神状態では実行できなかった。だから、過去に彼が破壊の美学の観念を植え付けられたときのように、自分が丹精込めて作った作品を壊して、その美しさを再確認する必要があったのだと思います。

 なので割とあのルートはアポカリプスを止めるのにかなり近しいアプローチであったかと。

②アンナは結局何者?

 ラスト全てを知ったような口振りで電話をかけてくるアンナは、前世代アレイア学院の学生で、本編では作中一度だけ現れた禁断のお店の店主であると考えられます。作中で皆が知っており、キリエちゃんに宜しくと言っていたことと、声が同じことからその可能性は高そうです。あとEDから分かる通り恐らくリリィ先生とは親子の関係で、前世代アレイア学院を同じリンゴの力でアポカリプスから救ったと考えられます。

③ヌイ公園とは

 作中よく出てくるヌイ公園ですが、製作者はマキリということが述べられています。さて、これだけしっかり物語を作っているのだから、当然マキリにも何らかの役割が与えられてそうです。彼は既に亡くなっているということですから、消去法で考えると、アンナのリンゴの相方だったのではないかと私は推測しました。

 一応理由もあって、ヌイ公園はイースター島として有名なラパ・ヌイから引っ張っていると考えられ、そこにある”ロトの柱”と”約束のメシア”というのも象徴的です。イースターはキリストの復活を意味しますが、ここでは時空遡行を起こせるクリスマスツリーの再誕を意味していると私は読みました。また”ロトの柱”は次のような伝説から来たものですが、

「堕落した町ソドムを滅ぼすために二人の神の使いがやってきたが、アブラハムの甥のロトとその家族だけは滅亡を免れることとなった。ロトの家族が隣の町まで逃げるまでの間、硫黄の炎でソドムを焼き尽くすのを神は待ってくれるが、約束として『決して後ろを振り返ってはならない』と言われる。しかしロトの妻だけは神との約束を破り、自分の町を思わず振り返ってしまう。その瞬間、妻の姿は塩の柱に変えられてしまった。」*1

二人の神の使いが町を滅ぼす、決して後ろを振り返ってはならないなどから、アポカリプスの存在を示唆しているようにも読み取れます。

 また”約束のメシア”は必ずキリストは再誕するといった意味だと思いますが、これはリンゴを食べて時空遡行の力を得、アポカリプスから町を救う人間の誕生を示唆しているようにも見えます。

 これらのことから、マキリなる人物はリンゴについての知見を持っている既に亡くなっている人間となり、それにあたる人物はアンナのリンゴの相方(おそらく夫)であることが予想されます。

 (追記)真霧言葉の存在を見落としてました。言葉の血縁だと流石に上の説は無理がある?

まとめ

 『アメイジンググレイス』は、これメッチャ面白い!!っていう瞬間的な面白さはなかったものの、世界観が非常に興味深く、優れた構成の文章は小気味良く、終始安定していた優等生的な作品であったと思います。また読めば読めば新しい何かが見つかるするめ的な作品でもあるので、私もまた読み直します。オリジナルチェス駒ギドウの能力メギドの炎には笑いました、こんなん気づけないですよ。

 今回はこの辺で。皆さま良いクリスマスを!街にリア充がはびこってるからってアポカリプス起こすなよ!!

 

引用)

*1)https://www.ab-road.net/europe/israel/I15/guide/sightseeing/07242.html

【幸せの形】なないろリンカーネーション琴莉√感想【ネタバレあり】

 間に色々感想を書けていないゲームがあるんですが(大体が問題児アインシュタインより愛を込めてのせい)、今回はシルキーズプラスWASABIさんの『なないろリンカーネーション』プレイしたので感想を残していきます。

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 本作ライターのかずきふみさんは、『きまテン』で初めて知り、『9-nine-』シリーズにエロハマりしたライターさんで、他の作品もずっとやってみたいと思っていました。

 本作は妖怪を使役して、現世にただよう幽霊を成仏させていくというお話で、一部バイオレンスな部分もありますが、概ねほんわかした作品ですね。

 と、前置きはこの辺にしまして、早速メインヒロインである琴莉ルート感想に参りましょう。

 正直、序盤は少し冗長かな?と思ってたものの、終盤の展開に驚かされ、最後は馬鹿みたいに泣かされました。手紙はズルいって言ったでしょ!!!!

 まず序盤について、この作品は鬼の力が強すぎて、探偵ものとしては驚きに欠けるところがありました。だって、サイコメトリーとテレパシーがあったら大抵の事件は一瞬で解決ですよね。最初のレーザーポインターの事件がそれを示していて、今考えればそれがこの作品は探偵ものではないよとの意思表示だったのかもしれません。それもあり、事件の話は終盤以外はほとんどなくて、シナリオのほとんどが飯の話でしたね

 最初は私も、一家団欒の風景を見て、幸せな気持ちをおすそ分けしてもらい、何となく心が朗らかになるような気持ちだったのですが、流石に繰り返し見せられると飽きてきて、まーた飯の話してるとか思ってたわけです。

 しかし、ラストの展開を見てしまうと、あの繰り返し訪れる幸せな団欒の日々が、とてつもなく尊いものに見えてくるのが凄い。理不尽に命を奪われて、でも幽霊として留まって、自分を認識してくれる人と鬼たちと一緒に、終わりある幸せを過ごしている、その風景を思い出しただけで泣けてくるのです。この構成力が本作の最も優れてるところと言っても過言ではないでしょう。

 また、終盤の展開については、途中から違和感を確かに感じてましたし、犯人の部屋にたどり着いた時点で私もうっすら察してしまいましたが、あの展開は悲しすぎる。お役目がこんなんばかりだったら全然心が持たないですよ、本当。優しくなければこの役目は務まらないが、優しすぎれば心が壊れる、世の中の不条理を見せつけられたようです。

 続けて、本作のエンディングについては賛否あると思います。琴莉√は、琴莉とお別れして、来世で恋人になる恐らくグッドエンド、幽霊の琴莉と許される限り一緒にいるノーマルエンドがあります。特に後者については余韻が台無しであるし、物語の流れからしてもおかしさを感じますが、このエンディングを作れるというのがノベルゲーの醍醐味なのではないかと私は思っています。小説などでこんなエンディングを書いた日には駄作判定を受けると思いますが、ノベルゲーにはそれを許容できる懐の深さがある。そして、どんなにご都合主義であったって、それを見たい私たちユーザーがいるわけです。

 メリーゴーランドで逝かないでくれと叫ぶ真は、まさに私たちの代弁者でした。こんな終わり方はないよ、どんなに綺麗ごとを並べたって、一緒にいたいという気持ちに嘘をつけない、たとえ先延ばしと言われようとも、色々なことが制約された幽霊と言う存在として琴莉を縛り付けてしまう我儘を言ってでも、この刹那を楽しんでいきたいと言うのは、とても人間的であるとも思えます。もう逝くなと言い出してからは涙で画面が見えませんでした。

 ですがふと冷静になると、人の心と言うのはとても流動的で、どこまで好きであっても変わってしまうものだとも同時に思ってしまうのです。その心が熱ければ熱いほど、急速に冷めていく―ということはよくあることでしょう。その過程で家族になれれば、一緒に生きていくという大目標が生まれますから、うまくいくかもしれません(古い考え方ですか?)。ですが、琴莉はあくまで幽霊で、どこまでいっても一緒には生きられなくて、最初は本当に好きであったのに、段々義務感から好きだと言うようになって、互いに苦悩する姿が容易に想像でき、心が苦しくなります。

 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ 

 百人一首にこんな一首があります。永遠をベッドで誓って別れた朝、本当か信じられず心が乱れてしまうと歌った唄ですが、琴莉もいつかはこのような気持ちになってしまうのやもしれません。

 あなたは永遠を信じていますか?

 

 私は信じていません。だからこそ、どちらかと言えば琴莉とお別れして、来世で恋人になるエンドの方が幸せだと思います。ですが、どちらもあり得た話であり、それをしっかりと描いてくれたライターさんには感謝しかありません。

 

 本作は、丁寧なシナリオ構成に、瞬間的な感動をくれ、上でも書きましたが少し退屈だった日常パートすらも、思い返してみれば本当に幸せな思い出となっていて、終始隙がない作品だったと言えるでしょう。期待していたものよりも遥かに上を行ってくれて、私は大満足です。『9-nine-』の次回作が全年齢版!ということで、少し悩みどころですが、ライター買いもありかなと思うぐらいには、このライターさんを好きになりました。

 引き続き応援を!というところで、今回は締めたいと思います。ではでは。

【美しきエゴイズム】白昼夢の青写真 感想

 ーー本当に素晴らしい作品と出会ったとき、私たちは語る力を失う。

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 Laplacianさんの『白昼夢の青写真』プレイしてきました。

 もう、良すぎて言うことがない。久々に仕事に手がつかなくなる作品と出会いました。日曜にプレイして、月曜ずっと頭の中でどうしてこうなってしまったんだ・・・?って頭の中でぐるぐるしてましたね。

 本作は、CG、シナリオ、世界観、演出、音楽全てに隙が無かったです。普通のギャルゲーにありがちな最後のワンシーンだけ良いとかではなくて――勿論終わりも最高だったのですが、そこまでに至るシナリオがすべからく面白かったのが凄い。

 CASE1~3は単体でも十分に面白く、特にCASE1の死との向き合い方を描いたのは見事でした。また、CASE0はもう凄まじいパワーを持っており、読み終わったときには、喜怒哀楽全ての感情を使い切った気分でしたね。2020年は『ゆきいろゆきはな』が最強だと思っていましたが、普通に心が揺らぎました。ここから『アインシュタイン』も待ってますし、2020年はすごいぜ。

 最近のエロゲは、昔と比べて割と万人に受けそうな出来のものも多いですし、これが一部の人にしかプレイされていないというのは本当に勿体ないことだと思います。でも、エロが入ってる時点で万人に読んでもらうことはできないし、エロは抜いて欲しくないし・・・うーむ難しい。

 ここからネタバレするので、未プレイの方はとりあえずプレイすることをお勧めします。

 

 

 

 本作は、世凪という一人のヒロインのみにフィーチャーした、フルプライスとしては珍しい作品ですね。しかし、前述したとおり決して内容が薄いわけではありません。

 私たちプレイヤーは、世凪という少女の歴史を3つの作品を通して体験することで、世凪が両親を、遊馬を、入間を、彼女の世界を、そして海斗をどう思っているというのが痛いほど理解することになります。これにより、本作は私たちプレイヤーに恐ろしいほどの感情移入をさせることに成功しています

 CASE3では、カメラマンになる夢を追いかけたカンナを好きになるすももの話から、幼少期の愚直に夢に向かって突き進む海斗への憧れを、

 CASE2では、自立していて格好いいオリヴィアというなりたい女性像と、オリヴィアを救うために命を削って執筆するウィルの話から、自分のことを思って中層に行くために研究者を目指した海斗への好意を、でもその夢の隣に私はいられないという諦観を、

 CASE1では、学校の教師と生徒という背徳的な関係から、社会などすべて捨てて海斗と二人だけで残りの時間を過ごしたいという強烈なまでのエゴが描かれます。

 これらがCASE0のシーンとマッチするから、世凪が気持ちを発露しなくても彼女の気持ちが痛いほど伝わってくるのです。でも世界はどこまでも世凪に厳しくて、それが悲しい。

 まず世凪は若年性アルツハイマーになることが定められており、その時点で人より長い時間を生きられません。さらには、彼女の夢を共有するという、特殊な能力のせいで研究者に目を付けられ、人体実験されます。そして挙句の果てには基礎欲求欠乏症と、作中彼女はとにかくひどい虐めを受けます。でも、どこまでも救いがないのに、世凪はいつだって海斗のこと、他人のことを思っていました。最後の世凪の分身である3人が、本当に楽しかったと伝えるシーンなどは死ぬほど泣きました。

 良かったわけ、ないじゃん。もっと生きたかったに決まってる。もっと些細ながらも楽しい日々が待ってたはずなのに、突如奪われ、それでも恨み言一つ言わずに海斗のためを思って最後まで笑っている世凪が本当に美しく、尊い

 こんないい子はいません。最後、概念上の存在になるわけですが、これはこんないい娘は世の中に存在しないというライターの強烈な皮肉にすら感じられます

  プレイ中、世凪の気持ちを思うと本当に辛くなってました。過去の情景が楽しく、幸せだったからこそ、記憶をなくし始めた世凪を見るのが辛かったし、脳みそ切り取られた時はリアルに「は?」ってなりました。バッドエンドが定められた幸せな話は、『はつゆきさくら』でもありましたが、本当に読んでて辛くなります。

 その中でも、自分が忘れているということを自覚して、愛されていることがわかっても記憶の気持ちが追い付かなくて・・・ということを淡々とした演技で表現した声優さんには脱帽です。

「――自分じゃない、誰かほかの人の気持ちがそこにあるだけで――

 本当は、狂おしいほど、海斗を愛したいのに――

 こうやって手をつないでいるだけで、安らぎを感じたいのに――

 ――今のわたしはなにも、感じないの」

 どこか海斗もそして私も、世凪の病気のことを甘くみていたんでしょう。どこかご都合で記憶を一部でも取り戻して、また世凪として愛しあえる日々を想像していたのでしょう。記憶喪失ものの常として、記憶を失った中でも好きだった相手のことを思い出してまた好きになるという展開がありますが、今作に限っては安易にそういう道に進まずに、あくまで別人であるという体をとっていたのも、また印象的でした。

 でもだからこそ、ラストのシーンで世凪がみんなのイメージで復活したときは安堵しました。ああ、やっと誰にも憚れず生きていけるのだと。

 

 楽しみ、怒り、悲しみ、安堵すべての感情を引き出してくれた本作は、平坦な日々を送っている私のような人間に彩りを与えてくれる最高の作品でした。まだまだエロゲも捨てたものじゃないですよ!!

 

 

――と、ここまでが1週目で感じた感想です。

 

 さて、このブログを書くために色々と読み直してきたのですが、この話の根底にあるのは人間のエゴイズムの肯定ではないでしょうか。

 海斗の行動は、冷静に考えると(冷静でなくても)どこまでも自己中心的で、そこに他人、世凪の気持ちは介在していないように見えます。

 例えば、中層を目指して研究員になろうと努力していたとき、口では世凪もその方がいいと言い聞かせていましたが、その実、ただ母親の病気を治せなかった下層を憎んでいただけで世凪のことなんか微塵も考えてないように見えます。

 夢の研究をするにしても、始めは世凪のあまり第三者に自分の中に入ってほしくないということを受け入れてたものも、人類を救うという大義のために、平気でその約束を破ります。破ると言っても一応お願いをしているわけですが、なんともエゴイスティックに感じられるのです。

 夢の研究をし続けてアルツハイマーを発症したかもしれない世凪の父親を知りながら、ここまでなら大丈夫と自分に言い訳をして研究を進めていき、いざ発症すれば、急に慌てふためいてやめようという。それは遊馬じゃなくても道理が通らないと言うでしょう(でも前頭葉切り取ったのは絶対許さないからな、アスマァッ!)。

 そして、おかえりなさいを伝えたいなどと自己中心的な理由で、自分と出雲以外認識できない世凪を作り出して彼女を苦しめたのちに、いざいなくなってみれば耐えられなくなって仮想空間上に、自分の思い出の世凪を構築してしまう。

 これがエゴでなくて、なんと言うでしょうか。みんなの認識が一致して作り上げられた世凪は、あくまで海斗の中の世凪であって世凪ではありません。スワンプマンの話ではないですが、死んだ人は元には戻らないし、それはその人の個を無視した所業とも言えるでしょう。だってそこで生まれた世凪は再現データであって、生きていた世凪の意思はないのだから

 ただこれは読み取り方の問題でもあります。宮澤賢治春と修羅の有名な一文で「わたくしといふ現象は、仮定された因果交流電燈の一つの青い照明です。」とありますが、この大乗仏教的な考えを拡大解釈すれば、自分は他人の認識から存在することとなり、この生まれた世凪は世凪本人だという捉え方もできます。プロローグにおいても海斗は似たような話をしておりーー何なら最初はそういう趣旨の話だと思っていたーーライター的にはそういう風に考えてた可能性が高いと思います。

 一方で、私は上記の解釈を様々な人間と交流する中で自己が確立するものだと考えており、海斗ただ一人の思い出の中の世凪を共有することは、思い出の再現であって世凪の自己の確立には至らないのではと思うのです。

 また、海斗の話を聞いた住民がおのおの想像してそれぞれの世凪像を構成し、その最大公約数世凪が仮想世凪として再現されたとも考えられますが、やっぱりそれは別人ですね。

 

 閑話休題。そんな振り回されていた世凪も最期には自分のエゴを海斗にぶつけています。自分の人生を意味のあるものにしたい、終わり方は自分で決めたいと。これは少しでも長く世凪といたいという海斗の思いに反するものであり、自分は自分のまま死にたいという当然の意志にも感じました。

 しかし、そんなどこまでもエゴイスティックな生き方がとても私には美しく見えました。人は時に自分の考えは絶対に正しいと思って間違ったことをしがちであるし、どんなに間違えたことだとわかっていても最愛の人を求めてしまう。また自分のままで死にたいというのは、多くの老人が抱える願いじゃないでしょうか。それはとても強い思いに満ち溢れていて、生の発露とは作中の言葉ですが、まさにその通りでした。その姿は原初的な輝きに満ちていて(は、格好付けすぎですか)、私もそのように生きたいとそう思うのです。

 例えば、海斗が夢の研究を進めずに、世凪のアルツハイマーの発症が遅れ、暫く20年ぐらい幸せに過ごすというのも一つの形だと思います。しかしそれはもう海斗ではなく、ただ生きてるだけということにもなりかねません。『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』とはトルストイの言葉ですが、不幸であったからこそ輝いた、そんなお話に感じました。

 日本人は古くは一人ひとりの我よりも、集団を尊ぶ人間性だったように思われますが、最近変化しているように感じているのは、私だけじゃないでしょう。離婚率の高さや、離職率の高さ、小さなところでは飲み会の減少(コロナとは関係なく)などなど、自分のエゴを主張する人が増えてきているように感じます。これは豊かになってきて集団である意味が薄れてきたからとか、西洋化の影響とか色々あると思いますが、とにかく我々はこの変化を受け入れていかなければならないことは間違いありません。本作は、そんなエゴイズムの中で生きていかなければならない私達に、その美しさを伝えてくれる、そんな作品であったのかもしれません。

 

 さて、長くなってしまったこの感想文に(故)波多野先生からひと言、

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 すみませんでした!!!